社会心理学概論Aレポート          

 

文献:「ステレオタイプの社会心理学〜偏見の解消に向けて」 上瀬 由美子 著

サイエンス社 2002225

 

 私たちはある集団に対し特定の共通したイメージをもっています。それは人々を分けるカテゴリーに結びつき、それに含まれる人たちが共通してもっていると信じられている特徴であるステレオタイプといわれるものです。このステレオタイプは世の中にいる様々な人々を分類するものと一見便利にも思えます。確かに言語や文化の違いなどで分けたほうがいいときもあります。ただしこのステレオタイプに否定的な意味をもつものが入った時はどうでしょうか。ステレオタイプによって否定的印象を決め付けられた人にとっては不快な思いをさせてしまいますし、ある集団に否定的なステレオタイプが定着してしまえば、人々はその集団に対し否定的な感情をもち、それが次第に態度にでてくるようにもなり、偏見、差別となっていってしまうのです。

 

 世間にある偏見にはステレオタイプによるものが多いのです。わかりやすい例だと、男性と女性の職場での扱いです。男女雇用機会均等法など法律が定められる前は給料など目に見えて差がありました。これは「女性は計算が苦手だ」「女性は論理的思考に欠ける」などといった強い固定観念が影響したものと考えられます。

 

 ステレオタイプの厄介な面の1つは一度形成されてしまうとなかなか消え去らないことです。ステレオタイプから離れた性質をもつ人(例:几帳面なB型の人)に出会ったとしてもそのステレオタイプには変化が無く、「あの人は例外」と認識されてしまいます。これをサブタイプ化といいます。また、そのステレオタイプの集団に該当する人を知ればステレオタイプは無くなるような気がするのですが、曖昧な接触、もしくは情報の入手で終わってしまうとかえってステレオタイプを強く印象づけることにもなります。これは接触中に相手がとった行動に対してステレオタイプにあてはまる点ばかりに注目してしまったり、ステレオタイプによって印象を形成してしまい、情報によってそれを確信に変えようとしてしまうからです。これが親密な接触になればたしかにステレオタイプに少しは変化がでてくる可能性は増えますが、その接触のある個人にのみ注意がいってしまう可能性も充分あり、サブタイプ化してしまい、結局ステレオタイプに何も変化がないということも少なくはないのです。

 

 ステレオタイプの悪影響についてです。否定的感情を伴うことで、偏見や差別にもつながるという面でも充分悪影響なのですが、個人の能力にも影響をあたえてしまうこともあるのです。これは自己成就予言というものからの影響です。つまり、自分が思い込んでしまった風に実際になってしまうのです。例としてあげると「女性は理系にむいていない」というステレオタイプが形成されそれがごくあたりまえに言われてしまうと、女性の意識の中には「自分は女だから理科や数学はできなくてもしょうがない」という考えが生まれてしまい、実際に国語や社会、英語は真面目に取り組むのに理科や数学はさぼりがちになり、そういう勉強の仕方を続けることによって自然と理系科目が苦手になってしまいます。つまり、その人が努力することによって開かれるかもしれない道をステレオタイプによってふさいでしまうこともあるということです。これは個人に対する固定観念でも同じことが言えます。例えばある教師が「この子はよくできる」「この子はだめだ」などとおもうことによってそう意識されてしまったこどもに影響がでてしまうのです。「できる」と思ったこどもにはよく質問をしたり、答えられなくてもヒントを与えたり手助けをしますが「だめ」と思ったこどもには質問さえあまりしなくなります。これによってこどもの学習意欲に変化が出てきてしまい、「できる」と思われたこどもは本当に成績が伸び、「だめ」と思われたこどもは成績が落ちていってしまい、教師の方も「やっぱり」と思い込みを確信してしまうのです。

 

 ステレオタイプによる偏見をやめようと考え、それを呼びかける人もいます。それは非常に重要なことなのですが、それによってステレオタイプに基づいた考えを強めてしまうこともあります。例えばかなりの田舎から出てきたばかりの転校生を「田舎者」と意識しないようにしようと思った人(抑制条件)とそうでない人とでは、確かに最初のうちは抑制条件の人の方が転校生に対しステレオタイプから遠のいたような接し方ができるのですが、時間がたつなどして抑制がとかれていくと意識していなかった人よりも、転校生を「田舎者」といった観点で見ていることもあるのです。「田舎者」ということを意識しないようにしようという戒めをかけることによって実は「田舎者」に関連することに非常に敏感になっているのです。それを避けようとすることはそれを意識していたということで、結果的に特に意識しないようにしようと考えた人の方が何も戒めをかけていなかった人よりステレオタイプを意識してしまったのです。

 

 ステレオタイプによる偏見、差別、それは民族紛争にまで発展することもあります。そこでキーワードになってくるのが集団同士の対立です。ある小学生たちのサマーキャンプでこどもたちを2つのグループに分けて、スポーツやゲームなどで競わせ、勝った方にだけ賞を与えたりするといったようにすると、次第に2つのグループは対立するようになり、顔を合わせればいざこざがおきるようにさえなってしまいました。それは、食事会や花火大会などという形で顔を合わせても直りませんでした。ところが、両グループが協力して故障したトラックを引き上げるなどという作業を行わせると2つのグループ同士の対立感は徐々に無くなっていき、帰りのバスではグループ混合で帰るまでになりました。つまり、集団同士の対立を無くすには、「顔を合わせる」程度ではなく「協力させる」というのが大事になってくるのです。また、この協力体制を人種の混じった学校での教育に用いることもあります。人種混合の小さいグループを作り、それぞれのグループの1人ずつに課題を出しそれを自習させ、他のメンバーに教えるようにさせます。そうすることで、1人1人に頼らなければならなくなりお互いに欠けてはならない存在になります。人種も関係なくお互いの立場が一列に並んだ状態になり、環境がよくなることで学習意欲も湧いてきます。この「協力する」というのは集団の対立に非常に効果的なのですが、協力体制が強い反発を生む場合もあります。例えば学校や会社、地域が合併するときに、「自分は○○の所属だ」ということに強く誇りをもっている場合がそうです。これは外からの脅威に対し自己のアイデンティティを守るための反応です。

 

 協力によってステレオタイプを変えるという点で効果的なものなのですが、ある5人がメールのやりとりであるレポートを完成させるというものでその5人の中には1人聴覚障害者が入っていました。残りの4人には誰が障害者かを事前に知らされていた人、途中で知らされた人、事前に違う人をそうだと知らされた人、そういう人がいると知らされなかった人がいました。レポート完成後、その4人に聴覚障害者に対する否定的イメージをアンケートすると、何も知らされていなかった人には変化は無く、事前に情報をもらった人はそれが偽情報の方でも否定的イメージを減少させていましたが、途中で情報をもらった人は変化が顕著でした。これには事前に情報をもらった人に関しては多少なりともステレオタイプに基づいた印象を形成してしまったのではないかと考えられています。一方、途中の方の人は全くそういう印象を持たずに接して、その人個人に対するイメージが既に形成された状態で情報が入ってきたということが影響していると思われます。

 

 ステレオタイプは偏見の中で、本人の感情が伴えば変えていくのは困難です。ただし、少しずつでも影響を与えていくのは決して不可能ではないのです。

 

 

***感想・意見***

 

 今回、私がこのステレオタイプによる偏見というものに興味をもったのは、小学生時代、東京から広島に転校した際「東京人は冷たくて、自慢ばかりする嫌な人間」と決め付けられて差別を受けたことがあって、実際に不快で辛かったですし、この手の偏見は小規模だといじめですが、大規模なものだと戦争などにもつながる決して無視できない問題だと思ったからです。ステレオタイプというものはおそらく文化的な影響をうけて形成していっていつの間にか確立し、人々の中に根付いてしまうのかなと思いました。また、根拠のないものが多いのも困りものです。血液型性格判断などは完全にそうではないでしょうか。私はB型なので否定的イメージがついてまわります。悲しいことに私の場合、かなりステレオタイプにあてはまってしまっているのですが、こういう人間がB型だとこのステレオタイプを定着させてしまうんだなと思いました。ある意味申し訳ないです。私の友達にも几帳面なB型はよくいますが彼女らはサブタイプ化されてしまっているのでしょうか。今年の4月に大学に入学して、簡単な自己紹介のカードを書かされました。あの時に出身地や血液型などを書く欄がありました。それが配られるとは思っていませんでしたし、今ほどステレオタイプのことを頭においていたわけではないのでばっちり書いてしまいましたが、今回この本を読んであれでイメージを決められてしまうような可能性も皆無ではないな、と思いました。あまり、初対面で自己紹介の時にステレオタイプ化されそうなことはしない方がいいのではないかなと思いました。偏見を持たれるのも迷惑ですが、あのステレオタイプによる自己成就予言というものは私的意見ですがもっと避けたいです。勝手な思い込みとかで、人の可能性を妨げるのは私も御免こうむりたいですし、私が誰かにそうしてしまうのも絶対に嫌です。ただ女の人の理系苦手視はそういう影響を受けている可能性が高いと思います。私は女子校に6年間通っていましたが、理系は3分の1以下でした。私の場合、本当は理科と数学のほうが成績は良かったのですが、人文・社会系に進みたかったので結局文系にしました。中には文系いまいちだけど理系がもっと嫌だから文系という実に曖昧な人もいました。理由がどうであれ理系は少なかったです。それに女子大に理系はとても少ないですし、家政系は逆に女子大にばかりあります。これはこれでステレオタイプだと思いました。男の人で家政系の勉強をしたい人もいると思います。ただ逆に「男なんだから家政系はないだろう」とかいう思考が働いて志願者がいないのかなとも思いました。なんにせよ人の可能性というものは本当に広いと思います。それをこういう固定観念で縛ってしまうのは大変もったいないと思います。人種によって性別によって差別されてしまっては、本人が努力しても(手術で変えられるとかはなしにして)その結果が水の泡になってしまうのは大問題だと思います。そんな根拠もとくにない固定観念でものすごい才能を持つ人を地に埋もれさせてしまう可能性もあるのですから。それからとある集団と集団による争い、対立。全世界共通の目標を打ち立てて協力するのが世界平和への近道なのでしょうか。だったら、その平和を目指すのが目標では?とも思います。あとは共通の敵がいると協力するというのなら、宇宙人でも攻めてくると変わるのでしょうか。否定的意味をもつステレオタイプを変えていくのがあんなに大変なのだから、きっと全世界の平和というものはもっと難しいのでしょう。全世界ともなるといったいいくつの否定的ステレオタイプがあるのやら、検討さえつきません。ステレオタイプは本当に身近なものから世界問題にさえなるようなものもあります。ぜひともみんなに時々でもいいからじっけり考えてほしい問題だと思いました。